映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」が、非常に不評である。
元々原作が大巨編で「映像化は難易度が高い」と思われていたドラクエ5だったが、ここまでの「炎上劇」を見せることになるとは、公開前には想像できていなかった。
どうしてここまで怒りの声があがる作品になってしまったのか?
今回はそんな「映画ドラクエ」の功罪について考えてみようと思う。
※ネタバレが含まれるのでご注意ください
今回、観客の不評を買ったのは、間違いなくラスト10分の「ミルドラース登場」以降だろう。それは論じるまでもないのだが、どうして「映画全体への怒り」にまで及んだのか?そこにはまず、観客の心の動きから考えていく必要がある。
そもそも今回の作品を観る前に、不安はあった
この「そもそも」という感情は、非常に根深いものだと思う。
ドラクエ5は、主人公が勇者ではなかった物語だ。
目の前で討たれる父、長い奴隷生活とそこからの脱出劇、揺れる恋心、結婚と出産……そして石化され何もできない苦しい時期を乗り越えて、勇者である息子と共に因縁の相手を倒しに行く。
それぞれの要素が、あまりにも強いのだ。
正直、三部作にしても良いほどのボリューム感である。
「ドラクエで単発映画を作ろうと思うんだよね。どれがいいと思う?」と聞かれて、「じゃあドラクエ5にしなよ」と答えるファンは少ないのではないだろうか。
そんな中、いきなりフル3DCG映画化するのが「ドラクエ5」ということで、非常に強い不安があった。
……そう。
原作改変があるのでは?
という不安だ。
(尺が足りないので)主人公が勇者。
(尺が足りないので)結婚しない。
(尺が足りないので)逆に恋愛メインになる。
などなど、考えられる改変はいくらでもあった。上述の通り、長いストーリーだけにある程度の改変は、どれほどの「原作愛」「実行力」があっても避けられないだろう。
ビアンカとフローラ、パパス、ヘンリーが出ることは予告編で確実だが、それだけに「どの要素が削られるんだ……?」という思いは拭えなかった。
大胆なキャラデザインの変更も相まって、驚くべき改変・大幅カットを恐れながら劇場に足を運んだのだ。
それを乗り越える演出の数々に、心を許してしまっていた
そんな不安感は、オープニングで、ある程度の安心感へと変わる。
ゲーム画面をふんだんに使用しての「駆け足での子供時代描写」を、製作陣の「主人公の半生を描き切ろう」という意志だと受け取った。ビアンカとの幼馴染設定をしっかりと描くためにも、どんな手法であれ子供時代を観客に提示してくれたのだと。同時に「最悪の場合、パパスは回想シーンだけで登場する」という懸念も、杞憂におわった。
「おやぶんゴーストが上映開始5分もかからずに倒せたよ!」
「ドラゴンオーブだってさ!なんで名前が変わってるの?」
という風に心の中でツッコミを入れつつも、多くの原作ファンは幕開けにゲーム画面を見たことで、懐かしい記憶が刺激されていたのではないだろうか。
ゲーム画面の登場、ほぼ原作に忠実な流れ……さらにはドラクエの音楽。
まさに「思い出」「記憶」を刺激して引き出すような演出の数々に、時には懐かしく思い、時には「ここは随分とあっさりしているなあ」「ここは原作とちょっと違うな」と思いつつも、私は十分に楽しめていた。
映画の評判(悪評?)を聞いて観に来た人は「聞いていたほど悪くない、むしろ頑張っているのでは?」と思ったかもしれない。
違和感はありつつも、受け入れようと思えた場面の数々
もちろん、観ていてツッコミをいれたい箇所はあった。それは原作ファンなのだから、避けられない部分ではあると思う。
ヘンリーの喋り方や性格への違和感とか、旅程描写の短さとか、バギ系呪文しか使えない主人公とか、MPを無視したビアンカの強力な呪文連打とか……あげようと思えば、キリはない。
でも、例えばブオーンの時系列改変は、個人的にはとても練られた演出だと思った。
指輪のシーンをやるにはさすがに尺がたりないし、宿命の相手であるゲマを倒す前に少しは実力をつけていく描写をしなくてはいけない。
「結婚前の試練」×「人気敵キャラとの対決」を一度に解決する、良い作戦だったと思う。
そこからの、勇者誕生・石化描写で、多くの原作ファンが「最後までやるんだ」と認識してしまったはずだ。少なくとも私はおおらかな気持ちで「天空のつるぎの使い方は別として、最後まで描いてくれるんだな」と胸を撫で下ろし、ドラクエ世界に没頭していた。ゲマがラスボスになろうが、ミルドラースが出てこようが、どちらでも良いな、と。
そうして、安心した心持ちでゲマ戦を迎え、主人公が打ち勝つのを観ていた。
そこで、あのラスト10分間を迎えたのだ。
悪い意味で「裏切られた」と思ってしまったラスト10分
100分近い時間をかけて、原作ファンを「ゲームの思い出をなぞる」という気分にさせてくれた「映画ドラクエ」は、あの瞬間からいきなり「映画ユア・ストーリー」に趣を変える。
早足で駆け抜けてきた、情報量豊富な映画のラストで──ようやく一息つけると思っていた矢先──急に他の映画に様変わりしてしまったのだ。
その「裏切られた」という感情が湧いた理由は、いくつかあるだろう。
明確に伏線といえるものはなかった「VR世界」
物語において読み手や観客を置き去りにしないための「製作者側の誠意」は、伏線をしっかりと提示することでないかと思う。それは「ネタばらし」の驚きを減らさないように注意を払いつつ、丁寧に積み上げられていくべきなのだ。
この映画では、観客に「最後にドラクエではない展開がくる」と覚悟させるための要素が、あまりにも少なかった。
好意的に考えても
- 幼年期がゲーム画面だったこと(幼少期省略という設定だった)
- 「自己暗示」を打ち破る際の描写(フローラと結婚するように自己暗示をかけていた)
- スライムの登場が毎回ゲーム的な表現だったこと
- スライムが主人公から全く離れなかったこと
- モンスターを倒した際の表現がゲーム的だったこと
くらいではないだろうか?
このうち、幼少期の描写を「全て描き切るための工夫・誠意」くらいに考えていた人は、特に裏切られた思いが強かったはずだ。
あまりにもうまく「全て描くこと」が出来過ぎていたために、喪失感は大きかった。
ラスボスの動機も、倒せた理由も不明
この「物語」を観ていて残るのは、唐突に現れたウイルスに対する疑問だ。
マーサがウイルスを食い止めていた?
一体、なんのために、どうやって……?
フローラが自己暗示を解く薬(プログラム?)を作って主人公に渡すあたり、このゲームのキャラクターたちは統制が取れていない自由な存在だと推察できる。
ラスト付近で「すぐ新しいプログラムを作るんですよ」みたいな係員のセリフもある。
ということは、各キャラは独立した意思のもと動いている(各キャラの役割を演じている)役者に似た存在で、各自がプログラムに直接影響を与えるようなアイテムを作れる存在なはずだ。結婚したいという役割を捨てて主人公のために動いたフローラの想いも理解はできる。(自己暗示プログラムをお願いされておきながら破棄するゲームというのは、商品としてどうなのか……というのは別の話として)
だが、ウイルスの襲来を止めようとしていたのが、あの世界でマーサだけだったというのは、そういう前提を思うと悲しくなる。ゲマやビアンカに「ウイルスが来てるからこの世界そのものが危ない」と言うことも可能だったような気もするし、スラりんはもっと何かしてやれた気もする。
そして、ウイルス自身が、また不明の存在だ。
プログラムを壊すという点は理解できる。
だから各キャラを消そうとした行為も、わかる。
でも、あの主張は「ウイルス」がするものだろうか……?
それは観客に何かを伝えたかった製作陣の「甘さ」のように感じてしまう。どうしても、自分たちの伝えたいことを伝え切る方法が思いつかなかったことによるものだと感じてしまうのだ。(あのウイルスの主張が製作陣の主張そのものというわけではないけれど、密接に関わる要素ではあるはずなので)
観客としては、いきなり悪意をもったウイルスが大した動機もなく暴挙に出て、みんなを困らせた挙句、普通のアンチウイルスソフトで対処されてしまった……という風に映る。それは我々から「打倒ゲマ」「打倒ミルドラース」のカタルシスを奪うに値しない結果に思えてしまったのだ。
登場してしばらく暴れ回るならまだしも、蛇足のように、ポッと出てポッと終わる。だからこそ、早口の主義主張だけが印象に残ってしまつまたのだ。
果たして「ドラクエ」である必要はあったのか?という疑問
言うなれば「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」ではなく「ユア・ストーリー ドラゴンクエスト」だった「映画ドラクエ」。
自省するための映画を観にきたつもりの観客よりも、純粋に 「ドラクエ」を楽しみに来ていた観客の方が多いはずだった。しかし、主題は明らかに別だった。
この映画の主題はラスト10分で、一方的に語られ続ける。しかもそれは「ゲームってどう思う?」というような、あまりにもフワッとしたものだ。
ここで
「じゃあ、なんでワザワザ『ドラゴンクエスト』を騙ったのか?」
という疑問に突き当たる。
観客動員数を考えてのことなのか。
それとも「物語」への没入感をスムーズにするために観客の記憶を利用したかったのか。
……理由はいくつかは考えられるが、どれもこのモヤモヤがスッキリするほどのものとは言い難い。
この作品が「ドラゴンクエストの映画化」ではないのだろう、という点だけが浮き彫りとなるだけだ。
たとえば、最初から不穏な要素を感じさせる「超進化した未来のゲーム」をやり始めて、ウイルスが攻めて来て、それを仲間のモンスター(実は最強のアンチウイルスソフトを持っている)と退ける……というストーリーは、わからなくもない。しかし、この枠組みを描くのならば、別にゲームそのものは作中作でよかったはずなのだ。
それを「人気RPGのドラクエ」「ラスト数分での思いもよらぬどんでん返し」という二つのプラス要素を盛り込もうとしたために、この映画は多くの人にとっての「わからない映画」になってしまったのではないだろうか?
「ドラクエ」が先なのか、「ストーリー」が先なのか……そこが不明なことで、とてもどちらつかずな存在となってしまったのだ。
これは決して製作陣の悪意によるものではなく、むしろサービス精神だったに違いない。
私は、製作陣の原作へのリスペクトが足りなかったとは思っていない。ちゃんとあの物語を分析したからこそ、ラスト前まではしっかりと描けていたのだ。
最近流行りの「ラスト〇〇分、この映画はひっくり返る」系の新要素を、無邪気にも盛り込んでくれたのは、製作陣の「プラスになるはずの計算」だったはずなのだ。
映画から何を受け取って何を考えるかは、観客に委ねられているはずだった
物語における「製作者側の主張方法」というのは、2種類あるのではないかと思う。
ひとつは、キャラクターに主張を語らせてしまう手法。
もうひとつは、ただシンプルにストーリー・出来事を描き、それを受け止めた観客がどう考えるかに委ねる方法。
どちらも有効な方法だと思うが、大切なのは使い所だと思う。
前者は「映画のドラクエ」で、後者は「ゲームのドラクエ」ではないだろうか?
そのミスマッチが、今回の違和感を生み出した要因のひとつだと思う。
原作に近いものを作ることで、必然的に100分近く〈後者〉の手法を使うことになり、ラストだけ〈前者〉の手法に切り替わる。だからこそ違和感が拭えない作品に仕上がったように思うのだ。
軸になる手法が急に切り替わったことで、観客の感情は置き去りにされた。
これが、ダメ押しの決定打だったと思う。
せめてVRにするにせよ、いきなり驚かせたかったにせよ、あそこまで語らせていなければ……
今後の「映画化新時代」の指標となりうる作品に
ここまで書いてきたこの映画の「炎上騒動」の理由をまとめると
- 途中までの出来がよかったことによる落差と、失望感
- 原作が主軸に置かれていなかったことによる不完全燃焼感
- 原作のやり方に寄り添わない表現手法
- オリジナル要素の稚拙さ(ラスボスの動機・伏線の薄さ)
- 観客を置き去りにする、行き過ぎたサービス精神
といったあたりになるだろうか。
なかでも罪深いのは、その「サービス精神」だ。
このミスマッチのせいで、ミルドラース(ウイルス?)の主張にまで非難が飛び火している印象が強いが、本質はそこではないように思う。
例えば、 序盤で「これはVR世界なんだな」と観客にもわかるようにしていれば(面白かったか面白くなかったかは別として)観客も覚悟して観られたのだから、ここまで炎上しなかったはずだ。
やはり、観客を驚かせたいという「サービス精神」を盛り込みすぎたのだ。
それはまるで、すでに出来上がっていた上等なフランス料理に、ドバドバとケチャップをかけるかのような行為だった。
新要素を入れる際にどう考えるべきか?
これはきっと、これから長らく映画化における課題になるだろう。
今や「技術が足りずに映画化が失敗する」「原作要素を切り捨てすぎて映画化が失敗する」という時代は終わり、「原作をある程度再現できる」という時代に入ったのかもしれない。
その上で「お金をもらう以上、付加価値をつけたい」という思いが湧いてくるのは、クリエイターとしての思い・企業としての思いとして自然な流れだ。
その欲求をひたすら抑えて、付加価値のない「原作ストーリーをなぞるだけの作品」だけが正解になるとは思っていない。
しかし今回の「炎上騒動」を経て、今後の映画化作品が「どのように付加価値をつけることで、違和感のないものを作れるか」という点を深掘りしていくことは不可欠だ。
失敗した映画、と言われ続けないためにも、ターニングポイントとなった映画になる必要がある。
あの劇場で観た「スライムの可愛さ」「モンスターの躍動感」「リュカの生き様」への感動を、暗い思い出にしてしまわないためにも。
きっと私は、また新作「映画ドラクエ」が公開されたら、映画館へと足を運ぶのであろう。
そこに、ドラクエ世界がしっかりと広がっているのだと、信じて。
(文・深々シン)
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