ドラクエ4のエンディング。
デスピサロを倒し、天空城のマスタードラゴンに報告をしに行く勇者たち。
そしてその後、仲間たちはそれぞれ元いた日常に帰っていく……。
世界を救い、元通りの平和な日々へ戻っていくめでたしめでたしなエンディングだが、私にはこれがとても寂しく感じる。
1人、また1人とパーティーを去っていく仲間たちを、見送ることしかできない勇者。
仲間たちには出迎えてくれる誰かがいる。
ライアンには主君が、アリーナたちにはサントハイムの人々が、トルネコには愛する家族、家族を失ったマーニャとミネアもモンバーバラで大人気だ。
そうやって歓迎されていく仲間たちを、後ろに下がって見つめる勇者は何を思っていただろう。
彼には出迎えてくれる人がいない。
彼の故郷にはもう誰もいない。
全員と別れ、とうとう一人になった勇者は山奥の自身の村へ帰る。
焼け野原になったかつての花畑で、勇者としての重責から解き放たれるように装備を解いた彼を出迎えたのは。
自らに命を捧げてくれた幼馴染だった。
天より降りたシンシアに思わず抱きつく勇者。なぜ死んだはずの彼女がここにいるのか。そんなことはどうでもいい。
手と手を取り合い、二人が新たな人生を歩もうとしたその時。
7人の仲間たちもまた、勇者のもとに集い、真の平和を謳歌するのであった。
このエンディングでよく話題にされるのは、最後に現れたシンシアは何者なのか?だ。
死んだ人物が生き返ることは、ドラクエでは時を遡りでもしない限りありえない。勇者たちが戦闘中に死ぬのとそれとは性質が全く別だからだ。
これに対しよく聞く説は2つ。
・マスタードラゴンが生き返らせた
・勇者が見た幻
どちらかといえば前者のほうがより有力だろうか。世界を救った勇者へのご褒美とも言わんばかりに幼馴染を生き返らせる竜の神。
しかし、なぜシンシアだけなのか、両親は生き返らせてはくれないのかと考えてしまい、神のくせに勝手に勇者にとっての命の優劣をつけるなと私は考えてしまう。どうせなら全員生き返らせろ。
だからといって、じゃあ幻だったのかと言われるとそれはあまりにも悲しい。
なんとなく自分の中で答えは出さないでいた。
しかし先日、このエンディングを見た私はある新たな疑問が生まれた。
どうして最後に仲間たちが勇者に会いに来ているのだ?
なんとなく今までは、最後に全員集合!俺たちいつまでも仲間だよな!みたいなノリかなと思っていたが、全員が会いに来る理由がわからない。
いわゆる同窓会的な、元気にしてた?という感じで、みんなで示し合わせて会いにきたのかなというパターンをとりあえず考えた。アリーナあたりが、「元気にしてるかしら?久しぶりにみんなで会いに行きましょうよ」と提案し、船でみんなを集めて会いに来たら、ちょうどシンシアが生き返ってました、ということだ。
あまりにもグッドタイミングだ。
しかしここで私はまた疑問に思う。
だとしても全員来るか?
アリーナたちはまだわかる。そもそも発案者っぽい感じがするし、あのおてんばぶりでまた抜け出したのだろう。ブライは嫌がってそうだが。
マーニャとミネアの二人には縛るものがなにもない。自由気ままに会いにいくことも可能だろう。
しかし問題はライアンとトルネコだ。
ライアンは旅をしている間は勇者の剣として行動をしていた。しかし本来の主君はバドランドの国王だ。そこで兵として働くライアンが、勇者元気にしているかなぁという理由で主君のそばを離れるだろうか。たまの休みに行ってきなさいと王から言われることもあるかもしれないが、少なくともライアン本人がバドランドを離れることを良しとしない気がする。
トルネコには家族と大事な店がある。武器屋を繁盛させること、そのための好奇心のために旅に出ることはあっても、そうではない理由で家をあけることがあるだろうか。ライアンに比べたらありそうだが、ぶっちゃけ「元気にしてるかなぁ」のノリで来たんだとしたら、何でお前も来ようと思ったんだよと感じてしまう。
要は、全員が揃っていることに違和感を感じたのだ。
全員揃ってないとエンディングとして成立しないとはいえ、理由付けがいまいち弱い。
そしてここで1つの可能性を考えた。
シンシアを生き返らせたのは、仲間たちじゃないか?
そう。
ドラゴン○ールである。
ここまでクソ真面目に書いてて急に別作品のアイテムが出てきて意味がわからないと思うが、簡単に言うとドラゴン○ールである。
つまり、世界には死んでしまった人を生き返らせるものがあるらしい、と情報を掴んだ仲間のうちの誰かが、
それならば、勇者の大事な幼馴染を生き返らせてあげよう!
と考えたのだ。しかしそれを勇者本人に言えば断られるかもしれない。そのため、勇者以外の仲間たちで、その何かを探す旅を再び行ったのだ。
勇者の大事な人を生き返らせるための旅。この目的ならば、ライアンもトルネコも一肌脱いでくれるだろう。もちろんブライもだ。
世界を救う旅ではなく、大事な仲間を救う旅だ、誰が文句を言うだろう。
現にあの世界には(リメイク版だが)世界樹の花というアイテムがある。そうでなくともマスタードラゴンに直談判でもいい。天空の勇者ではない彼らがどうマスタードラゴンと会うかは置いておいて。
これならば、なぜシンシアだけなのかもある程度説明がつく。仮にその生き返らせ装置の対象がひとりだった場合、仲間たちは思い出すだろう。勇者が、自分では装備することができないはねぼうしを大事に持っていたことを。神が命に優劣をつけるのはおこがましいが、勇者のそのような姿を見てその帽子の持ち主が勇者にとって大事な人だったに違いないと仲間たちが考えるのは人として当然だ。
そしてとうとうシンシアを生き返らせることに成功した彼らは、急ぎ山奥の村へ行く。
本当に生き返ったのか?それを確かめるため。
だからこそ、シンシアがちょうど生き返ったあのタイミングに、彼らが全員現れたのだ。
ああ本当に生き返っている!私達やったんだわ!と言わんばかりに。
ことによると、急に幼馴染が生き返ったことに喜びながらも驚きを隠せない勇者に比べて、仲間たちのほうがむしろ感極まっているかもしれない。
強引なところもあるが、私は結構この説を気に入った。
孤独になってしまった勇者を最初から最後まで救ってくれたのは、神なんかじゃなく仲間だったんだと信じたい。
※全員と別れてからシンシアが生き返るまでのタイムラグについては考慮に入れていない。
それを言い出すと、気球もなしに仲間がいっぺんにあの早さで会いに来ることがそもそも不可能だろという話になるので。
(文・やなぎアキ)
関連記事