バーンは地上の征服を求めていたのではない。
地上そのものをなくすことを目的としていた。
それはなぜか。魔界に太陽の光を届かせるためだ。神々の横暴により奪われた太陽を、その手中に収めるためだ。
ところでダイ大では他にも太陽という言葉は出てくる。
ダイだ。
そもそもダイの母親、ソアラもまた太陽のような人だったとバランに称される。バランは自身だけの太陽を見つけた。そのソアラの温かさをダイも受け継いでいるのだ。
太陽によって得られる恩恵は、そのまぶしいまでの光と、温かさだ。
だからこそクロコダインたちはダイを太陽と称したのだ。ダイと出会い、彼の人柄に触れ、その純粋さゆえのまぶしさと、優しさゆえの温かさを知る。絶望の淵に立たされても、それでもなんとかするという意志をあの小さな背中に感じ、彼の中に皆太陽を見た。
ダイは最終決戦で、自身が太陽になるという覚悟を決める。己を犠牲にし、皆を照らす太陽になろうと。しかしそんなことはしなくても、すでに彼は地上の人々にとって太陽だった。
明るさと温かさは、太陽だけがあれば解決するのではない。そこに生きる人々にとって重要なのは、もっと別の何か。ダイが持っているような何かなのだ。希望を見出せるような、勇気が湧いてくるような、純粋な何かなのだ。
それがあったからこそ、どれだけ絶望的な状況になろうとも人々は諦めなかった。ダイという太陽に照らされていれば、希望を捨てずにいられたから。
だからバーンも、皆のように自分の太陽を見つけていればもっと違ったのかもしれない。
神々が奪い人間に与えたものだと、だからこそこちらも人間から奪うのだと、その考えに囚われてしまったバーン。誰よりも太陽を切望していたのは彼だった。地上の征服などに意味はなく、ただ魔界に太陽の光を届けたいと進み続けたバーン。
部下の中にはダイと出会い自身の考えを改めるものもいたが、バーンが太陽を求めるその気持ちの年季は生半可なものではない。ダイと数度戦った程度では彼の考えは揺るがなかった。はるか上空に浮かぶ太陽よりももっと近くに、求めているものがあったかもしれないのに。
強すぎるがゆえに、むしろダイの弱い姿、諦める姿を他の誰よりも目の当たりにしてしまったかというのも大きいだろう。
それでも、もしダイとバーンの間にもっと十分な対話の時間があれば、もしかしたらバーンもまた他のみんなと同じようにダイの中に太陽を見出せたかもしれない。温かな輝きを見出せたかもしれない。
しかしそうはならなかった。
戦うことしかできなかった。
結果、バーンは冷たい石となり、あれほどまでに手にしたかった太陽の炎に抱かれていく。皮肉なものである。
そしてダイもまた、はるか上空、太陽に向かって消えていく。
大魔王バーンは紛れもない悪であり、彼がダイによって倒されることは当然である。勧善懲悪、それでいい。
それでも、ダイ大においての太陽の扱いを考えると、もしかしたら、本当にもしかしたら何か別の結末があったのではないかと思ってしまう。
いや、バーンのことだ。どれだけ対話を重ねても無理か。
だからこそ大魔王バーンなのだ。だから太陽は奪うものなのだ。
(文・やなぎアキ)
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